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 押し寄せる波が何度も少女の足を覆う。 唇は青ざめ、体は震えている。 体の芯から体温を奪う冷たさにも、まるで気づかぬように少女はゆっくりと進んでいく。
 深みに足を進めていけば、波はやがて胸元まで迫ってきた。
 濃い茶色のウェーブがかった髪が夜の海に溶け、少女はまっすぐと前を見る。 少女の茶色の瞳は月明かりに淡く青に光る。
 後ろを振り返る事もなく、ゆっくりと瞳を閉じると、あふれていた涙が頬を伝って海へと還る。
 力を抜き、意識を闇へと委ねようとした頭の端に誰かの声が聞こえた気がしたが、だがそれももうどうでも良い事だった。
 海へと体を委ねれば、外よりも暖かく感じる。
 だが突如、腕を捕まれたかと思うと強く引っ張られる。 そのまま抱き上げられ、外気に晒される。 凍てつくような寒さに、今更ながら少女が呻く。

「この、バカが!」

 聞いた事のない声に困惑するも、一度落ちかけた意識がまた急激に薄くなる。
 うっすらと開けた瞳の先に、月明かりに光る影があった。
 あなた誰、と言葉を発する前に少女は意識を手放した。










***










 ゆっくりと開いた瞳に映ったのは淡いベージュの天井だ。 見たことのない風景に、現状を把握しようと起き上がろうとする。

「っつ……」

 体の節々から悲鳴があがり、少女は己の体を抱きしめた。 痛みがあると言う事は、いまだに現実に生きているという事だ。
 その事に僅かな落胆を感じつつも、今更ながら恐怖が湧き上がる。 あの海を目にしたとき、覚悟は決めていたと思っていたのに、いざ助かってみれば恐怖を抱く自分を自嘲する。
 それにしてもこの場所はどこなのだろうかと思い周りを見渡してみる。
 少女が寝ているベッドから少し離れて机にいすがある。 机の上には何枚かプリントのような物が散らばっている。 床にも本や、バッグなどが無造作に置かれており、ここが誰かの部屋だという事は明白だ。 枕の隣には可愛らしいテディベアが置かれており、ベッドシーツも淡いピンクに統一されている。 可愛らしい部屋だ。
 しかし、意識を手放す前に聞いた声は男のものだった。 そんな事を考えていると、部屋のドアが開く音が聞こえた。
 そちらに視線を合わせると、見知らぬ少女がトレーを片手に部屋にはいってくる。
 濃い琥珀色の髪が揺れて、こちらを見ると、その瞳が輝く。

「あ! 起きた?」
「あ……はい……」

 よかったー、と言いながら少女はベッドの脇にある小さな机にトレーを置く。 トレーの上にはマグカップが置いてあり、湯気が立っている。

「私ね、笹良ささら!」
「……私は、長谷川未空みあです」

 つられるまま、名前を言うと、笹良が未空の名前を復唱する。
 濃い蜂蜜色をした瞳が嬉しそうに細められる。

「よかったね、助かって」
「あの……私、どうして」
「海兄が助けたんだよー」
「かいにい?」
「うん、防波堤の所あるいてて貧血起こして、そのまま海に入っちゃったんでしょ?」
「貧血……」

 未空は聞きなれない単語に、首を傾げる。
 あの場所にいたのは、自分の意思で、その足で、すべてを終わらせようとしたのだ。 海を選んだ事に深い意味はない。 ただ、月を浮かべる海があまりに綺麗で、ここで終るなら、それでもいいと思えたのだ。
 笹良の曖昧な説明を噛み砕きながら、未空はその「かいにい」こそ、最後に聞いた声であろうと推測する。
 未空は微笑んで、助けてくれてありがとうございます、と言った。 その答えに満足したのか、笹良がまた嬉しそうに微笑む。

「あ、これ、ココア。暖まるよ」
「ありがとうございます」

 笹良がトレーの上からマグカップを取り、未空に手渡す。 甘い香りが鼻腔に広がる。 受け取ろうと手を伸ばした所で、未空は自分が見慣れない服を着ているのに気づく。
 確かワンピースに羽織ものを着ていたはずなのに、今はかなりぶかぶかな長袖のT-シャツを着ている。

「この服……」
「あー……私が色々用意してる隙に海兄が勝手に着替えさせちゃって……大丈夫!変な事はしてないよ!たぶん濡れた服を早く脱がせたかっただけなんだと思う」

 笹良の言葉に未空の顔が急に強張る。 あわてて笹良がフォローを入れるが、一度強張った表情はなかなか元に戻らない。 困ったように笹良が、ごめんね、と呟く。 その声色に未空は慌てて笹良の方を向くと、大丈夫です、と笑いかける。
 その時、笹良の背後の扉が開き、また見知らぬ青年が入ってくる。
 未空は戸惑いの気持ちを隠しきれずに、青年を見る。 手には布のようなものを持っている。 光の加減だろうか、その髪色はほぼ金色だ。 深みのある茶色の瞳と目があうと、未空の体が小さく震えた。

「ああ、起きたのか」

 低い声は、海で聞いた時よりも落ち着いていたが、同じ人間なんだとすぐにわかった。
 勝手知ったるように部屋に入ってくると、笹良の横に立ち、なあ、と声をかける。

「笹良、匠が呼んでたぞ」
「哥哥が? ……んーじゃあごめん、行くね。 ゆっくり休んでね!」
「あ、ありがとうございました」

 ひらひらと片手を振りながら、笹良が部屋から出て行く。 部屋に沈黙が満ち、未空は居た堪れない気持ちになる。 青年は椅子を取って、ベッドの横に置き、その上に座っている。

(……着替えさせられたって事、は……)

 柔らかな布団を握りしめる、意を決して青年の方を見やると感情の見えない瞳とぶつかる。
 一瞬怯むものの、ゆっくりと言葉を選ぶ。 だが先に言葉を発したのは、青年の方だった。

「どうする?」

 突然の問いかけに未空は言葉を失う。 どう答えようか迷っていると、青年は言葉を続けた。

「家に送っても、痣が増えるだけか?」

 痣、という言葉に未空の瞳が揺れる。 服の下に隠れているものの、未空の体には古いものから新しいものまで殴られた痣が残っている。
 どう考えたって、それを見れば故意につけられた物だとわかるだろう。
 脳裏に大きな手を振りかざす父親の姿が映る。 他人に痣を見られた羞恥心と、悲しみに涙が零れだしそうになる。 必死に泣くまいとするが、喉の奥が痛み、じわじわと視界がぼやけていく。
 やがて耐え切れなくなった雫が零れると、それを合図に未空の頬を幾つもの涙の線が描かれる。 ごめんなさい、と謝ろうとしても声が震えて言葉にならない。 顔を覆ってどうにか涙を止めようとするが、一向にとまる気配はない。
 すると、後頭部に何か暖かいものがあたる、それが男の手だと気づくのに少し時間がかかった。
 少し引き寄せられ、胸元にすっぽりと収まる。
 未空は苦しくなって、男の服を縋るように握り、ひとしきり泣いた。

「……落ち着いたか?」

 泣き終わり、幾分か落ち着いた頃合に男が声をかける。
 未空は泣きはらした瞳を拭い、すいません、と謝る。

「大丈夫です、家に帰ります」
「……家は大丈夫なんだな?」
「はい」

 そうか、と安堵した様子を見せる。 どうやら未空の小さな『嘘』を信じてくれたようだ。
 それに未空自身も大丈夫なような気がしてきた。
 すべてを吐き出してすっきりした分、強さが戻ってきた気がする。

「もう、帰ります」
「じゃあ送ってやる」
「でも……」
「ここの通りは暗い。服も乾いてる。支度できたら階下に来い」

 それだけ言い残すと、男は立ち上がり、手に持っていた布を椅子の上に置くと部屋を後にした。
 未空はベッドの上から椅子に手を伸ばすと、ほんのり温もりが残っている服を手に取る。

(名前も……聞いてない)

 そんな事を考えながら、未空はT-シャツに手をかけた。 着替え終わると、着ていた服をたたみ、考えた末に一緒に持っていくことにした。
 洗って返した方がいいのだろうか。 もともと荷物は何も持っていない、ドアノブに手をかけ部屋の外に出る。
 モダンな作りの家は、未空の家よりも格段大きい。
 そろりそろりと階段を下りていくと、廊下の電気は消え、あたりはしん、としている。 どこが玄関なんだろう、と見渡していると、唯一明かりのついていたドアが開かれる。

「なに、キョロキョロしてるんだ?」
「あ、あのこれ、服は、どうすれば」
「ああ、いいよ。 かして」

 そう言ってT-シャツを手渡すと、先ほどの男はぽいっとソファの上へ投げ捨てた。 折角たたんだT-シャツがまたくしゃりと皺を作ったままソファに置き去りになる。

「行くぞ」
「あ、はい」

 青年の片手にあるキーがカチャカチャと音を鳴らす。 サンダルも少し湿っていたが、今は気にしていられない。 
 大きな背中を追いかけていくと、高そうな外車が現れる。 濡れた靴で乗ってもいいのだろうかと不安げに男を見上げると、男は不思議そうな顔をして、乗れよ、と未空を促す。
 意を決して助手席に乗り込み、緊張気味にシートベルトをする。
 住所を告げると、男は手馴れた様子でカーナビを操作し始める。

「あの……」
「ん?」
「……私、長谷川未空ですっ」
「…………御庄海希かいきだ。笹良みたいな自己紹介の仕方だな」

 苦笑しながら言う海希に、まさにその笹良に習ったとは言えず、未空は恥ずかしそうに俯く。

「漢字はなんて書くんですか?」
「海に希望の希」
「……綺麗な名前ですね」
「お前は?」
「未完成の未に空です」
「未来の未でもあるな」

 良い名だな、と続けられ未空は自分の漢字を改めて頭で思い描く。 そういえば、未来の未と同じだ。 自分の名前に希望に似た言葉を見つけて、思わず嬉しくなる。 いままでそんな事、考えもしなかった。
 優しい異国の旋律が車内を満たす。 知らない歌だったが、未空の心に染み入るように、心をほぐしてくれた。
 安らぎすら覚える空間も、30分ほどした所で終わりを告げた。

「結構入り組んでるな。 こっからどう行くんだ?」
「あ、もう大丈夫です!」
「大丈夫って」
「ほんとです、ここの裏側の家ですから。ありがとうございました」

 夢の終わりを告げられ、未空は慌ててお礼を言うと、シートベルトを外し、車の扉を開ける。
 それからもう一度お礼をして、扉をなるべく優しく閉める。

 閑静な住宅街は人一人おらず、少し気味が悪い。 早く海希を安心させようと未空は家の方向へと走っていく。
 家まで来たところでエンジンがかかり、その音が遠ざかるのが聞こえる。

(……ありがとう、ございました)

 心の中で、もう一度お礼を言う。
 今日という日を覚えていれば、きっともう絶望なんてしない。
 そう思いながら家のドアノブに手をかけると、金属音はするが、扉は開かない。
 当たり前だ、両親はもう就寝している。 二人とも未空の動向はあまり気にしていない。 未空が合鍵を持っていない事も知らないだろう。
 思わず長いため息をつく。
 家の前に居ても、見られたら困る。 そのツケは結局未空に回ってくるのだから。
 しょうがない、と思いながら夜をすごせる場所を探しに未空は歩き始めた。
2nd/Aug/08

 

 

 

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