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女は少し拗ねたような表情をしている。
その動作は幼いようにも見えるが、れっきとした人妻な上、妊娠中だ。
不満げに海希を見上げている。
「もう帰るノ?久しぶりにきてくれたのに!」
「渡しそびれてたからな、出産祝いには早いけど、笹良が選んだんだ。 その服」
「アリガトって言っててネ。 モウ! ゆっくりしていきなさいヨ!」
彼女−綾華は日本生まれ日本育ちの日本人だが、イントネーションが少し外れている。
本人曰く若気の至りでやった”いかがわしい仕事”の際にずいぶんと役に立ったのヨ、だそうだ。
漆黒の髪が揺れ、同色の瞳が不機嫌そうに海希を見る。
「近くまで来たから寄っただけだ! ポストに入れようと思ったらまだ明かりがついてたからな、さっさと寝ろ! 妊婦が!」
「マア! お姉さまに向かってそーゆー口の利き方はないでショ。 イイワ、また今度いらっしゃいネ!」
「ああ、誠司さんによろしくな」
怒った顔をしたと思ったらすぐに笑顔になって海希に手を振る。 こんなにくるくる表情が変わる相手が、四六時中傍にいるのはさぞ疲れるだろう。 お愛想程度にひらひらと手をふると、背を向ける。
「海希」
名を呼ばれ振り向くと、女が優しいまなざしを浮かべながら近づいてきた。 からかうような声色であれば足を止めなかったが、そんな様子ではなかった。
「何があったか知らないケド、元気出してネ」
「何もない」
「お姉サマに隠し事はできなくてヨ。 ……ここはマダ、アナタの家でもあるのヨ」
「………ありがと」
「アラ、久しぶりに可愛げがあるわネ。 オッキクなってからはずいぶん無愛想になったのニ」
そう言いながら綾華は背伸びをして、海希の頭を撫でる。 子供扱いするな、と言いたかったが、悔しいがどこか緊張していた心がほぐれる。
海希が一番孤独だった時も、同じように撫でてくれた。 彼女の夫も同じように支えてくれた。 どうしても、まだ頭が上がらない相手なのだ。
「ネ、ほんとにまたいらっしゃいヨ? 誠司も逢いたがってたのヨ」
「ああ、近いうちに来るさ」
今度こそ本当に家に背を向け、車に乗り込む。
車のキーを差込みエンジンをかける、ギアを変えながらもう一度玄関先を見ると綾華がまだ立っていた。
気恥ずかしい気分になりながら、海希はアクセルを踏んだ。
長居したつもりはないが、ずいぶんと夜が深まったらしい。
町の喧騒からは離れた住宅街の為、街頭の明かり以外はない。
元来た道を帰りながら、ふと先ほどの少女が気になった。 大丈夫だ、と言っていたが先ほどまで身投げまで考えていた相手なのだ。 家に入るまでやはり見ているべきだった、と今更ながら後悔する。 時間も時間なので、家族もかなり心配していただろう、説明していれば家族で話し合って問題を解決できたかもしれない。
まだほんの少女だ、小さな細い体だった。
生々しい跡は今に始まったようなものではなかった。 新しいものから、治りかけのものまで。 よくもまあ綺麗に服で隠れる所だけを殴れるものだと関心したくらいだ。
今まで、たった一人で誰かの理不尽な暴力に、痛みに、耐えていたのだ。
「あー……くそ」
どうしても、気になる。 先ほども綾華に元気をだせと言われるほど、気にしていたのだ。
だがただ助けたというだけの海希に何ができるだろうか、もう逢う事もないかもしれないというのに。
そう思いながら車を走らせていると、先ほど未空を降ろした公園が見えてくる。 何気なく公園の中を見やる。
「?」
ブランコが小さく揺れていた。
真夜中を過ぎた今ごろ揺れるブランコなんて、ホラー以外の何者でもない。 思わず軽くブレーキを踏み、中の様子を見る。
酔っ払いかなにかか、と思っていると、こちらに背中を向けてブランコに乗っている人物がふと横を見る。 すると、月明かりの下、何かが青く光る。 それはあの暗い海の中、一瞬だけ小さく開いた瞳と同じものだった。
思わず海希はブレーキを力いっぱい踏んだ。
***
背後で聞こえた車の急ブレーキ音に思わず体を震わせる。
今までなにも音がないのも怖かったが、こんな時間に活動している人間に出くわすのも怖い。
結局当てもなく近くの公園のブランコの上に落ち着いてしまった。 最近引っ越してきたために、近くに知り合いは誰も居ない。 一週間もすれば、新しい学校に通わなくてはいけない。 元来人見知りな未空にとって、これ以上のストレスはない。
思わずため息をつきながら、ブランコを小さく揺らす。
「おい」
突然頭上から響いた声に未空は今度こそ叫びそうになった。
だが、人間本当に驚くと、声さえも出ないのだ。
恐怖をどうにか押し殺して、恐る恐る顔を上げる。
「……お前、何してる?」
暗い海の中、月明かりの下で影が光ったのは、彼の色素の薄い髪の毛だったんだ、と未空は海希を見上げながら思った。
不機嫌そうなその顔に、未空の恐怖は溶け、かわりに焦るように説明を始めた。
「あの、鍵を……忘れちゃって」
「インターフォンは」
「鳴らしたんですけど。たぶんお父さんもお母さんも、寝てるんで」
「お前が鍵を持ってないのにか?」
「いつも持ってるんですけど、忘れちゃって……」
帰る、つもりはなかったのだ。
だから鍵を持ってこなかったわけを、たぶん海希は感づいている。 けれど、きっとその事には触れないだろう。
「早く来い」
伸ばされた手が、未空の手を取り立ち上がらせる。 知らぬ間に冷えていた手に、海希の手の体温は熱過ぎるくらいに感じた。
「え?」
「手が冷たい、凍死されても気分悪いしな……」
「……すいません」
手を引かれたまま、歩き出す。 今更振り払う事もできず、未空は黙って海希の後を追う。
「謝ってもらう必要は、ない。 海に行ってないだけマシだ」
「………どうして、ここに居るんですか?」
「ちょっと知り合いの所に寄ってたんだ、んで帰り道はここだからな……お前の瞳は不思議な色をしてるな」
車に向かう足取りを一旦止め、海希は未空の瞳を見つめる。
端正な顔がまじかに迫り、未空は焦ったようにあ、あの!と声をかける。
「か、海希さんも、月明かりに髪が光って……綺麗です」
「母親が半分スペインだからな」
「そう、なんですね……」
「お前は?」
「私、は……」
思わず言いよどむと海希が察したのか、再び歩き出す。
「言いたくないなら、良い。悪かったな」
「いえ! ……ただ……」
その言葉の先に何を言えばいいのかわからず未空は黙ってしまう。
(ただ、知らない、だけ……)
繋いだ手に少しだけ力を入れる。
乱暴な物言いをする人だが、その背中は優しさに溢れている。
そして今日は一日その優しさに、つけこんでいる。
暖かな車内に入ると、思わずほ、と息をつく。
感覚のない指に、どれほど自分の体が冷えていたのかを痛感する。
「とりあえず、これ羽織っとけ」
そう言い海希が己のジャケットを未空に渡す。でも、とジャケットを押し返そうとしたが、海希が無言でそれを交わす。
何も言わずに発信した車に、未空は困ったようにジャケットと海希を交互に見た後、おずおずとジャケットに袖を通す。 男物なだけあって大きいが、海希の体温が暖かい。
急に安心しきると、意識が脆弱になってくるのを感じる。
心地のよさに目を開けてられなくなる。必死にだめだ、と念じるのに体は言うことを聞いてくれない。
ゆっくりと未空は目を閉じ、意識を手放した。
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