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「ティアイエル」

 老王が娘の名を呼ぶと、その声に応じて目の前の少女がゆっくりと顔をあげた。
 長い金糸の髪、穏やかな碧の瞳。 薄い青のドレスに身を包んだ少女は慈愛に満ちた表情で父親に微笑みかける。 18歳と云う初々しさが少女には溢れていた。
 父親はそんな娘を悲しそうな瞳で見やる。

「なんでしょう? お父様」

 娘も娘なりに父親の態度がいつもと違う事には気づいている、だがそれをおくびに出さずに無邪気に笑う。 家臣の手前、感情をぐっと堪えると王は威厳のある声で用件を言った。

「ハーバイル皇帝直々に、お前を皇子の正妻に、との要望があった……」
「え……」

 あまりの突拍子のない言葉に少女は驚きの瞳で父親を見つめる。 すまなそうな表情を浮かべる父親に、これが現実なのだと痛感する。
 少女はすぐに笑顔を取り戻すと、深々と王へお辞儀した。

「有り余る光栄でございます」

 それだけ言うと失礼します、とその場を立った。 性急過ぎる退室だったが、誰も責める者は居ない。
 早足で城の中庭に出ると、近くにあった木に寄りかかった。

「姉さま……」
「アリエル」

 二歳年下の妹であるアリエルが不安げにティアイエルを見つめていた。 話はもうこの妹にまで伝わったのだろう。
腕を伸ばし、近寄ってきた妹を優しく抱きとめる。

「姉さま」
「まあ、そんな顔をしないでアリエル……私は貴方達を守るために行くのだから」

 小さな嗚咽が聞こえ、震える小さな肩を抱きしめる。
 仕方がない事だとわかっている。 王女に生まれた時から政略結婚の駒になる覚悟はしていた。
 軍事帝国としてその力を蓄えるハーバイルに対立していたフィレンツィアだがこれ以上は持ちこたえる事ができないのは目に見えていた。 いざ攻め入られれば一たまりもない。
 むしろ皇子の正妻に迎えられるのは幸運な事だ、悪ければ何十人もいる側室の一人になっていたのかもしれない。 ティアイエルは忠誠の証、そして人質になりに行くのだ。
 ティアイエルは瞳を閉じ、町の風景を思い浮かべる。

 暖かな人々、自然、愛してくれる家族、すべて心からティアイエルが愛するものだ。
 それらがティアイエルが嫁ぐ事によって為される同盟により、守られる。

「貴方達を守るためなら、私はなんでもするわ」
「でもっ……」
「ほら、何時までも泣かないで。 笑顔を見せてちょうだい」
「姉さま……」
「きっと守って見せるわ……」

 穏やかな碧の瞳の奥にその意思の強さが宿るのを見て、アリエルは何もいえなくなる。
 姉の決意の片鱗を見た気がした。
 無視に口元を弧に描く。 せめて故郷を離れる姉に自分の心配はして欲しくなかった。






***






 準備は慌しく進められた。 婚礼用の豪華な衣装が誂えられ、見た事のないような装飾品も一緒に持たされた。  誰か共に侍女を連れて行くかとも聞かれたが、ティアイエルは小さく首を振った。
 何人かは私をお連れください、と言ってくれたがまだ若い彼女たちを何が起こるかわからない他国へ連れて行く気にはなれなかった。
 ハーバイルの国境近くまではフィレンツィアの騎士たちがティアイエルを護衛する、それからはハーバイルの輿で国へ入るのだ。

「それでは、お父様、お母様、アリエル。 ……行ってまいります」
「ティアイエル」

 瞳を涙を溜めた母親が堪えきれず泣き出すと、父親がその肩を抱いていた。 睦ましい両親を見て育ったティアイエルはいつか自分も両親のように本当に愛せる人に出会い結ばれると信じていた。 けれど王女である以上、難しい話だったらしい。
 胸にこみ上げる思いに、目頭が熱くなるが必死に涙を抑える。
 声は出さずに微笑んだ、喉が焼けるように熱い、今、声を出せばきっと震えてしまう。

 動き出した輿の中でティアイエルはくいるように祖国を見つめる。 もしかしたらこれが最後かもしれない。 いや、きっとそうなるのだ。

「……っ」

 はらはらと頬を伝う涙を拭う事もせず、ティアイエルは遠くなる城を見つめていた。
 だが自分が向かう先が他国、しかも敵対していた過去のある国だ。
 弱さはすべて、捨てなければいけない。 手の甲で乱暴に涙を拭うとティアイエルは燐とした表情で祖国を見つめた。

 指定された場所へはまる一日かかってついた。 お互い身分を証明しあい、あらかじめ決められていた算段でティアイエルの輿が移される。
 見慣れたフィレンツィアの者が名残惜しげに遠くなる王女の輿を見つめていた。
 ティアイエルもまたそのものたちに礼を言うと、改めて気を引き締めた。

 国境を越えたあたりから、だんだんと緑が減り、文明の進んだ町が見えてきた。 開拓されたそこは人の活気に溢れている。
 祖国とはまったく違う様子に、ティアイエルは驚いたように窓の外をくいるように見ていた。 だがすぐに護衛の一人に安易に顔を出さぬよう諭されるティアイエルは大人しくカーテンを閉める。

「もうすぐ、城へつきます」

 やっと旅が終わる事への開放感か、少し嬉しそうな護衛の言葉にティアイエルは体を強張らせた。
 もう逃げる事など、できない。
1st/May/05

 

 

 

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