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 灯り一つない暗闇の中、アレクは静かに立っていた。
 窓から差し込む穏やかな月の光だけがたしかな明かりだ。
 やがてゆっくりと扉が開くと、一人の女が部屋に入ってくる。

 暗闇に溶ける女が、アレクの元へと近づくにつれて月の光でその姿を現す。
 アレクは女を前にして、言葉にならないほどの怒りが胸にこみ上げるのを感じるが、理性でそれを抑える。
 恐怖に濡れたその茶色の瞳はどこか情欲に火照っており、それが一層アレクの嫌悪感に拍車をかける。

「マイラ」

 そう名を呼ぶと、女―マイラの体が震えた。

「……どうしてあのような事をした?」
「……なんの、事でしょうか?」
「とぼけるな! 私と目が合っただろうが! ……なぜティアラを突き落とした?!」

 耐え切れずそう怒鳴ると、マイラの表情が目に見えて引きつる。 だがその青ざめた顔に同情心は湧かない。
 ティアラが落ちた事でアレクの位置から犯人が見えたのだ―それこそ見間違えのない顔を。

「侍女でありながら、主人に歯向かったのか?」
「あの方は他国の皇女です! いつ貴方の敵になるかもしれません」
「女一人に私がやられるとでも危惧したのか? 馬鹿馬鹿しい!」
「私は……私はあの方に貴方様のお心が傾くのが怖かったのです!」

 震えながらそう訴えるマイラの表情に嘘は見つからない。 だがアレクはその言葉の意味がまったく理解できなかった。 ぼろぼろとマイラの頬に涙が伝う。

「私の心がどこに向かおうが、お前には関係がない事だろうが」
「……最初から、私には本気ではなかった、と?」
「誰がそんな話をしている、それにそれはお互い承知の上だったろうが」

 放たれた言葉は己でも冷たいと思えるものだった。 マイラと関係を持ったのは数えるほどであったが、それはその時限りの関係だとお互い分かった上での事だった。 アレク自身は変な期待を抱かないようにマイラを他の侍女から特別扱いした事はなかった。 だがマイラには違ったらしい。

「恩情を授ける。 去れ、二度と私の前に姿を現すな」
「……あの方を、愛してらっしゃるのですか?」
「違う。 私は主人に牙を向けたお前を許さないだけだ」
「だったら、王にでも―エド様にでも私を突き出してください! それができないから、貴方様はあの方を傷つけたくないからこうやって内密に処理をしようとしているのでしょう!」
「これ以上ふざけた事を言うな! 死罪にでもして欲しいのか!?」

 今までにないほど怒鳴りつけると、マイラは真っ青な顔で立ち尽くしている。 体中の血の気が引いたようだった。 優秀な侍女だったが、仕方がない。 ティアラに新しい侍女を付けなければ、と考えながら視線をマイラから外す。
 それが合図だったかのようにマイラは扉に向かって走り出していく。 明日の朝、早ければ今日中には消える事だろう。 涙で濡れた頬を隠さずに、乱暴に扉を開けると飛び出していく。

「?」

 その瞬間、マイラではない小さな悲鳴が聞こえる。 気のせいかとも思ったが、念のために扉に近づく。
 訝しがりながら扉の外に出て、全身が凍りつく。

「アレク……」
「ティアラ、なぜ、ここに……」

 寝巻きのまま、どこかばつの悪そうな表情のティアラが立っていた。 この様子だと何かしら会話は聞こえていたはずだ。
 医者に安静にしているようにと言われていたティアラが寝付いたのを見計らって部屋を出てきたのだ。

「起きたら……貴方が居なくて……探してて……それ、でっ」

 途切れ途切れのその言葉が、ティアラの動揺をアレクに伝える。 侍女に殺されそうになったのだ、当たり前だろう。 他国で周りに見方は居ず、どれほど心細いのか。

「ティアラ」

 慰める言葉は見つからないまま、名前を呼ぶと、ティアラはアレクの瞳をまっすぐと見つめ返してくる。

「マイラは、貴方の恋人なのですか?」
「いいや。 だが関係を持った事は、ある」

 答えにくい質問だが、会話を聞かれている以上嘘は無意味なものだ。 その答えにティアラは俯いて無言になる。 さすがに形ばかりとは言え、夫にそんな事を言われて傷つかないわけはないだろう。

「体だけの関係だ、向こうもそう思っている」

 言い訳がましいと思いつつも、そう続けざるえなかった。 俯いていた顔が徐々に上に向く。
 泣いているかと思ったその瞳に涙は浮かんでおらず、ただ強い光が宿っていた。

「いいえ、マイラは貴方を愛していたのです」
「まさか」
「だから……私を殺そうとしたんですね……」

 殺されかけたというのに、ティアラの声色にはマイラへの同情心が込められていた。
 責めるような雰囲気は一つもなく、まるですべて許しているようにも聞こえた。

「馬鹿馬鹿しい……たとえお前が死のうと、私の心はあの女のものになど、ならないというのに」
「そうですね……女は愚かです。 私も……」

 小さく続けられた言葉にアレクは自分でも驚くほど反応した。

「お前にも? 誰かを殺めてでも手に入れたい相手が?」

 責めるように問うと、ティアラは驚いたようにアレクを見る。 そして目を伏せながら小さく頷く。
 その動作に自分の心の底から何か黒いドロドロしたものがあふれ出すのを感じる。 目の前の相手を完膚なきに壊してしまいたいと思う、凶暴な気持ちだった。
 自分でも恐ろしくなるようなその感情に、アレクは思わずティアラから一歩下がる。

「アレク……?」
「残念だったな、今のお前は私の妻だ……たとえ、名ばかりであろうと」
「ええ……分かっています……」

 そう言って微笑んだティアラはどこか消えそうなくらい儚げだった。
 手を伸ばせばすぐに消える幻のようだ。
 現にエドが王位を継ぎ、この国が安泰し、現王が国政に係わらなくなればティアラを祖国へと返すのは最初から決めていた。
 そうすれば、彼女は居なくなるのだ。
 アレクの傍から―一生。

「アレク!」

 驚いたようなティアラの声にアレクは我に帰る。

「血が……」

 そう言ってティアラがアレクの顔に手を伸ばす。 無意識の内にかみ締めて切ってしまったらしい。
 赤い血が唇を伝い、下へと流れる。 その血をちっとも厭わないように、一歩の距離を簡単に越えてティアラの細い指がアレクの下唇に触れる。

 血の味が唇の隙間から進入して口腔を覆う、美味とは言えない鉄の味。 白く細い指、甘い香り。
 気がついたら、細い腕ごと引き寄せていた。

「っ、ん……っ……」
「ティ、アラ……」

 先ほどまで、アレクではない他の男への愛を告白した唇は、柔らかく。 ただ夢中になって細い体を抱きしめる。 苦しそうに呻くティアラの後頭部を片手で固定して、より深く口付ける。
 舌を絡めとり、吸い、存分に味わう。
 ようやく満足してその唇を開放すると、ティアラが苦しそうに息を吐いた。

「アレ、ク」

 まるで獣じみた行為だ、とアレクを恐々と見上げるティアラの瞳を見て思う。
 自分でも押さえ切れない、激しい衝動だったのだ。

「血を……」
「え?」
「血を見ると、女が欲しくなる。 マイラもその時に関係を持った……悪かったな」

 そう誤魔化す事で目の前の少女が深く傷つく事は分かっていた。 マイラの代わりにした、と取られても悪くはない。
 しかし今の口付けがそうでない事はアレクは十分分かっていた。 けれどそれを伝える気はない、伝える言葉も見当たらなかった。

「今夜は部屋には戻らない、早く休め」
「………」

 相手の返事を聞くよりも先に、アレクは逃げるようにティアラの横を通り足早にその場を去る。

『……あの方を、愛してらっしゃるのですか?』

 まるで呪いのように、マイラの声が蘇る。

「違う……愛して、なんか」

 愛せるわけがない、出会ってまだ少ししかたっていない。 何も知らない相手の事を。
 けれどその考えを心が裏切る。

 ティアラがバランスを崩し落ちているのを見た時、何も考えずに走り出した。
 心が凍りつきそうになり、どうしても助けたいという思いだけで手を伸ばして走った。
 腕の中の温もりが目を開いた時の、安堵感。

 ひどく体が熱い。 柔らかな唇の感触が未だに残っている。 まだ足りないと、自分の中の雄がそう叫ぶ。 ティアラのすべてを自分のものにしてしまいたいと浅ましく願う自分がいる。

「違う……」

 口で言った事がすべて真実であればいいのに。 自分を納得させるように何度も何度も呟いた所で見えてしまった真実はもう変えられない。 やがて言葉を失ったアレクは、絶望に満ちた表情で誰にともなく罵りの言葉を吐いた。
20th/May/05

 

 

 

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