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 鼻腔を楽しませる華やかな花の香りを肺いっぱいに吸い込む。 柔らかな緑に色とりどりの花が咲き乱れる場所は生命力に溢れているように見える。
 思わず駆け出し、嬉しそうに庭を見て回っていると、マリーが背後から近づいてくる。

「そんなに、嬉しいの?」
「お城の中には……花などは飾っていませんでしたから」

 そう言ってティアラが小さく微笑む。 フィレンツィアは緑に溢れた国でしたから、と告げるとマリーはそう、と言った。
 目を閉じれば鮮やかな情景が浮かび上がる。 城の中にも緑が溢れ、花の香りに包まれて朝起きる事もあった。 身近に感じていた幸せが、いざ違う国に来てみるとまったく違う文化がある事に気づく。 フィレンツィアにいたときよりもずっと、花を見て心を癒されると感じている。

「……素敵な、国なんでしょうね」
「ええ……」
「行ってみたいわ……私はハーバイルから……いえ、この城から出た事がないから」
「お城からも、ですか?」

 まるで軟禁されているかのような口ぶりに、ティアラは驚いたように問う。

「そうね。 今はエドの婚約者として、危険だから外出は禁止されているわ」
「前、は?」
「余計な事を口にする可能性があったからよ」
「余計な、事?」
「そう。 血筋でね。 だから私は、あの人に愛しているとは伝えないの」

 そう言ったマリーの表情は何か諦めきった顔によく似ていた。 マリーが泣くのではないかと思ったが、その瞳からは何も零れず、ティアラは言葉を詰まらせる。
 自ら、エドの婚約者と言っていた、けれど、誰に愛を伝えないのだろうか。

(エドに、それとも……)

 急に思い浮かべた顔は、冷たい横顔だった。 まさか、と脳裏から追い出そうとするが、一度張り付いた映像はなかなか消えない。 そんなティアラをマリーは見やると少し笑う。

「そうよ。 私がアレクを愛しているの。 でもエドと結婚をする……ずるい女ね。 アレクが誰とも結婚する気がない事を知った途端諦めたなんて」
「いい、え……」
「いいの、ほっとしたんだもの。 最初から、私のものになってくれないのはわかっていたし……それにエドも私の気持ちは分かっているは。 アレクだけが知らないで、ずっと『弟の婚約者』としての態度を取り続けているの」
「マリー……」
「つまらない話ね! 忘れて頂戴!」

 今までの雰囲気を吹き飛ばすように、無理やり明るい声色でマリーがそう言う。 それ以上その事に対して言葉を重ねるのを笑顔で拒否しているのを感じられた。

「あなたは、国に恋人は居なくて?」
「いいえ、いません」
「好きな方は?」
「いいえ」
「……好きになった方は?」
「………いいえ」

 最後の質問はなぜか申し訳ないような気持ちになりながら応える。 マリーは正直にもつまらない、と口を尖らせる。 憧れのような気持ちを抱いた事はあるが、決してそれは恋愛の情ではなかった。
 現にその人物が結婚すると知った時も、心から二人を祝福できた。 誰かを、そういった意味で愛する事を、ティアラはまだ知らないのだ。

「大丈夫よ。 アレクには言わないし。 気にしないわ!」
「いいえ……心を捧げる相手は、一生に一人しか現れないと教えられましたし……婚姻関係を結べば生涯付き添うのがフィレンツィアの掟です」
「まあ。 いまどきアバンチュールなんてくさるほどにあるのに」
「でも、私にはきっとそんな器用な真似はできませんから」
「……そうね、貴女の瞳は、ただ一人しか写さない」

 ティアラの深緑の瞳を、マリーがくいるように見つめる。 まるですべてを見透かされるかのような鋭い視線にティアラは小さく体を震わせる。 視線を外そうにもまるで固定されたように、動けない。
 ようやくマリーの方から視線が外されると、自然と安堵のため息が出た。

「貴女は、一人を愛する運命なのね。 けれど、結ばれれば……」
「結ばれれば……?」
「いいえ、よしましょう。 言葉にすると物事は急激に現実に近づくのよ」
「……今のは?」
「私の母はね、予言者だったの。 今はこの風習はないけれど。 王族の人間は一人残らず予言を受けていたのよ」
「……そうなんですか。 でも……人の運命を見るのは辛くはないですか?」
「え?」
「マリーは今、私の為に言葉を捨ててくれました。 けれど王族に対してはそのような対応はできないでしょう? どんな運命であろうと、それを口にしなければ、伝えなければいけない……辛いはずがないように思えるのです」
「………そう言う風に言ってくれたのは、貴女だけよ」

 心底驚いたように見開かれた目にティアラが写る。 マリーはそう言って笑うが、まるで泣き笑いのようだ。 何かおかしなことを言ってしまったのかもしれない。

「それでも、予言を受けた人間はどうなるの? 生まれてすぐにその言葉だけに傷ついて生きていく人間がいれば? その予言が当たるかも分からないのに……? ……最初から、予言者なんて、要らなかったのよ」
「マリー……」

 吐き捨てるようにそう言うマリーは痛々しく、ティアラは思わず手を伸ばしてその肩に触れる。 細い、女の子の肩だ。 何かに耐えるように小刻みに震えるその肩をティアラはゆっくりと、優しく抱きしめる。
 故郷にいる妹を重ね合わせながら抱きしめる、マリーもティアラの手をはねつける事はなく大人しくしている。

「……悪かったわね」
「え?」
「一応結婚している身の貴女に言っていいような予言じゃなかったわね」
「いいえ……それでも、人の心は自由ですから」
「そうね。 故に何かに縛られてしまうのよ」

 どこか遠くを見つめながら言うマリーの横顔は実年齢よりも大人びて見える。
 無邪気な表情を見せたかと思えば、ティアラよりもずっと物事を冷静に見ている風にも見える。 ティアラは心底目の前の少女を不思議に思う。

「マリージェーン! 姉上!」

 穏やかな沈黙が、その明るい声に表情を変える。 ティアラが声のした方を向くと、義理の弟がにこやかに手を振っている。 軽い足取りで近づいてくる人物に向かい、ティアラは急いでドレスの裾を摘み簡単にお辞儀をする。 しかし近づいてきたエドはティアラの手を取り、首を横に振った。

「堅苦しい事はなしです。 あなたは僕の義理の姉上なのですから」
「しかし」
「どうぞ、僕の事はエド、と」
「でも……皇太子様に向かって」
「兄上が何を言ったのか、想像はできますが、時期皇帝が僕に決まったわけではありませんよ」
「え? 彼は継承権を放棄しているのでは?」
「軍事国家ですからね、軍が賛成しない限り、議会でも採決されませんよ」
「そう、なんですか……」
「兄上はすばらしい軍人ですから」

 戦争や軍といった言葉とは遠い世界でティアラは生きてきた。 フィレンツィアにも王族直属の軍はあったものの、数は少なくあくまで自衛の為だ。 守る事に長けていても、他国を攻めるために存在しているわけではない。 だからこそハーバイルとの全面対決はどうしても避けたいものであった。
 けれどこの世界の様々な場所で血が流れている事は知っている。 そして夫であるアレクはその不安定な世界に身を投じているのだ。

「どうです? 慣れましたか?」
「ええ……良くして頂いています」

 そう言って微笑むと、エドも嬉しそうに笑った。 その気遣いが嬉しく、ティアラの目頭が少し熱くなる。 それを悟られないように涙を抑える。

「そうだ。 夕食をご一緒しましょう」
「ええ……アレク、は?」
「アレクならまだ仕事中。 あんまり私たちとも一緒に食べたりしないわ」

 マリーが不満げに呟くと、エドが宥めるように兄上が忙しいんだ、と言う。 その様子を見てティアラは微笑んだ。






***






 一緒に食事をしたことで僅かに残っていた警戒心も解け去り、より一層心が近づいた気がした。 マリーは時折思い出したかのようにつんけんするがそれが彼女なりの照れ隠しである事は食事の後には分かっていた。
 穏やかな時間が終ると夜も更けた事もあり、ティアラは自室に戻るために長い廊下を歩き出した。 誰かとこんな風に笑って食事をしたのはこの国に来て初めてだった。 だが浮き足立つティアラの思考も、冷たい廊下が冷やしていく。
 すれ違う侍女達の視線さえも冷たく痛く感じる。 今までの幸せがまるで幻のように霞んでいく。 自然と足は早足に自室を目指していた。
 たどり着いた自室を恐る恐る覗き込むと、まだもう一人の部屋の主は帰ってきていないらしい。 誰もいない事に、ほっとすると同時に悲しい気持ちになる。
 一人部屋にいては気分が沈みそうだとティアラは湯浴みの準備をすると部屋を出た。 少しばかり長めの湯浴みを終らせて部屋に戻ってきた頃には日は完全に落ちていた。 それでもなお部屋は無人のままだった。

(帰ってきても、話す事なんて……ないのに)

 なのにどうして自分は待っているのだろう、と思っていた瞬間ドアがゆっくりと開かれた。 硬いブーツが床に当たる音がし、朝別れたばかりの夫が目の前に現れた。 頬に埃がついているのを見ると、ティアラは傍にあった布を手に取り埃を拭こうとする。 だがアレクは一言触れるな、と牽制すると上着を脱ぎ椅子に掛けた。 行き場のない手を下ろすと布を畳みなおして元の場所に戻す。

「外は、気分転換になったか?」
「え……あ、はい。 久しぶりでしたから、とても楽しかったです」
「そうか」

 急に話しかけられ、ティアラの頭は一瞬真っ白になる。 ティアラが腰掛けているベッドから少し離れた椅子にアレクが座っている。

「何か不都合があればマリージェーンに聞いてくれ。 彼女なら貴女を助ける事ができる」
「ええ……今日もすごく良くして頂きました」
「そうか……私よりは傍に居てくれるだろう。 少し疲れた顔をしている。 早く休め」
「わかりました。 ありがとうございます」

 そういい終わるとアレクは立ち上がり部屋を出て行ってしまった。 ティアラは言葉通りベッドに横たわる。 相変わらずそっけない態度だったが、ティアラはもう怖くなかった。 むしろ掛けられた言葉は優しいものだった。
 この婚姻がいつまでも続くものだとはティアラは思っていなかった。 現にアレクはティアラを本当の妻にしようとはしていない。 いずれは離縁されるのだろう。
 ならば、ティアラもまた心を見せなければいいのだ。
 そうすれば、近い未来にやってくる別れを悲しまずにすむ。

9th/May/05

 

 

 

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