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月明かりだけを頼りに、静かにアレクは自室に入った。 まるで忍び込むような己の動作に、どうしてこんな苦労をしなくてはいけないのかと自問する。
仮にも妻であるティアラを娶る前は、無造作にベッドに倒れこむと、湯浴みも着替えもせず寝ていた事もあった。
ティアラよりも頭一つ分以上背のあるアレクがベッドに倒れこめば、華奢な体が下敷きになってしまうのだ。
着替えを手にすると手早く湯を浴びる。 ようやく一日の汚れが取れ、まるで別人にでもなった気がする。
(違う……別人になりたいのか)
自分の思考に自嘲し、寝着に着替えると自室へと足を向けた。 律儀にティアラはいつも壁際によりアレクの場所を作ったまま寝ていた。 きっと今日もそうだろう、と考えながら自室の扉を開ける。
「おかえりなさいませ」
凛とした少女の声が響き、淡いランプの光が部屋を照らしていた。
寝ていたとばかり思っていた相手が起きている事に、アレクは少しばかり動揺する。
ティアラはベッドに腰掛けており、座ったままアレクを見上げていた。
「仕事の区切りは大体きょうでついたと、お聞きしました。 明日は早く起きなくても大丈夫なんですよね?」
「ああ……」
「でしたら……貴方の事を少しは教えてください」
「……は?」
少女の言葉にアレクは呆然と口を開く。 ティアラの言っている事がすぐには理解できずアレクは戸惑う。
ようやく理解すると、苦笑を零しティアラの隣に座る。
こちらを見つめる緑の瞳は強い意思が込められている。 思えばティアラのこんな瞳を見たのは初めてだった。
いつもどこか不安げに揺れている瞳しかアレクの記憶にはなかった。
そう思い出しながら、アレクは目の前の少女との思い出のなさに気づく。 意図的に接触を避けていたわけではないが、積極的ともいえなかった。
婚姻関係にあるというのに、お互いの事をまったくといっていいほど知らないのだ。
アレク自身はお互いの理解を必要に思ってはいなかったが、目の前でこちらを真剣に見つめる少女の思惑は違うようだ。
しょうがない、と諦めにもにた気持ちになりティアラの方を向く。
「何が、知りたい?」
「……私に教えてくださる事、すべてを」
「別に隠す事などない、言ってみろ」
「……どうして、王位継承権が、ないん、ですか?」
歯切れ悪そうに言われた言葉はよく考えれば何も知らない彼女にとっては当然の疑問だったのだろう。
アレクからの説明もない上に、他の者が何も知らないティアラに対してその事を語る事はないだろう。
その質問は長い間ティアラの中で燻っていた事は彼女の瞳から見て取れた、けれど戸惑ったような表情にこの質問を口にする事を憚っていた事が分かる。
「私が生まれた時、ある予言が下された”空の色と海の色をもつ者よ、そなたは覇王となろう”」
「は、おう……?」
「お陰で父は私がこの国を武力によって滅ぼすんじゃないかと危惧しているのさ。 私のこの瞳の色が―」
「でも、そんな」
「勘違いするな、私は運命を悲観した事はない。 感謝している、私ではなくエドがこの国を治めるべきだ……血塗られた私の手ではなく」
ティアラの瞳が動揺に揺れる。 良くも悪くも思っていることがすぐに顔にでるのだろう。
同情だろうか、彼女はまるで自分が傷ついたかのように痛みを秘めた瞳をしている。
「それだけか?」
「あ、え……えっと」
少し困ったように口元に手をあてて考え込んでいる。
金糸に縁取られた大きな翡翠の瞳は煌いている。
(美しいな)
お世辞でもなく、自然とそう思う。
初めてアレクの前にティアラが現れた時よりもずっと今の方が美しく見える。
マリージェーンのような大胆な美しさではない、月夜の下に咲くような儚げな花のような美しさだ。
どちらかというと人のものとは思えないような美しさだ。
手を伸ばせば触れられる場所に少女がいる、そしてアレクには少女に触れる権利がある。
しかしアレクは手を伸ばす事はなく、未だに考え込んでいるティアラを微笑ましく見つめている。
アレクはよほどの事がない限り過去の話を―予言の事を人に言う事はない。
予言者自体が廃れたしきたりであり、王族でもない限りその予言の内容など外に漏れる事はない。
「どうして、軍へ?」
「祖国を守りたいからな、手っ取り早い。 私にはこの方が向いている」
「でも、危険です」
「私の命で祖国が、国民が助かるならば、本望だ」
「そんな……! 命を粗末にするような事を言わないでください!」
突然声を荒げたティアラは、次の瞬間自覚したのか、驚いたように自分の口元を押さえる。
表情豊かなティアラの瞳が不安げにアレクを見上げる。 見慣れた瞳だった。
「私は、貴方に死んで欲しくないです……」
「なぜだ? 私が死ねばお前は大手を振って祖国へ戻れるというのに」
「それでも……人の死は嫌です」
途端に泣きそうな表情をするティアラの瞳はこれ以上ないほど傷ついている。
数える程しか逢った事ない人間である自分に対してのティアラの有り余る言葉にどこか気恥ずかしい気持ちになる。
ティアラがこの部屋で今日のように自分を待っていてくれるなら、生きて帰ってくるのも悪くないとさえ思う。
この少女は危険だ。 アレクの頭の片隅で危険信号が鳴る。
自分でも驚くほど簡単に少女はアレクの心に入り込んでくる。
「いつか……お前を必ず祖国へ帰してやる」
「……フィレンツィアへですか?」
「約束しよう、必ずだ」
「……ありがとうございます」
困ったようにティアラはアレクに礼を言う。 お互いにとってそれが最良の道なのだろう。
微笑み返すとティアラはやっと花のようにはにかむ。
「もう遅い。 休んだ方がいい」
「はい……おやすみなさい」
「ああ……おやすみ」
思えば幼い頃から隣に人の温もりを感じながら寝るような事はなかった。
それがどんなものなのか分からなかったが今はただ心地いいものに思えた。
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